福島大学避難所物品
2011年3月11日の東日本大震災とその後に生じた福島第一原子力発電所の事故で,相双地域の被災地や原発周辺の住民の多くが避難を強いられた。福島市内の学校や公共施設が次々と避難所となったが,福島大学も自ら被災者受け入れの意向を県に伝え,3月16日より避難所を開所した1)。水道やガスが止まり,まだ東北本線・東北新幹線の運転再開や東北自動車道の開通がなされず,物資,水,ガソリンなどが手に入りにくい中での避難所の開設であった。体育館などを避難所として使い,多いときで約150名が避難生活を送った。運営は地域連携課が担当したが,行政政策学類教員が運営実務に加わったほか,70名ほどの学生によるボランティアの参加,共生システム理工学類教員によるブログの開設など,全学にわたる多くの教職員や学生の協力があった。また,人間発達文化学類教員や学生による手芸教室,造形教室や,「避難所幼稚園」と称した幼児支援活動,保健管理センター医師による健康面でのケア,学生サークルによるオーケストラ演奏など,大学ならではの被災者支援もあった。学生ボランティアと避難者が調理をする炊飯方式による食事の提供,配給せず物資を陳列して必要な人に渡るようなマーケット方式による物資の分配など,ユニークで工夫された運営もなされた。その後,仮設住宅の整備に伴い避難所は縮小し,4月30日には全員の退所が完了した。5月の連休明けには入学式があり,大学の授業が始まった。 あれから11ヶ月経ち,当時の面影は,既に探すのが難しくなっている。
左上は避難所の張り紙。体育館の入り口に貼られていたもの。貼付の際に使った緑色の養生テープが残っている。立派な看板は作られず,間に合わせであった。中上は南相馬市に残った人が編集し,各地の避難所に配信した「南相馬ブログ新聞」第21号(平成23年4月18日発行)。避難所に張り出された。南相馬市内の震災被害の様子や季節の風景を知らせる記事が多かった。福島大学避難所は南相馬市方面からの被災者も多かった。右上は福島県中央児童相談所の広報チラシ。掲示した際に見栄えが良くなるように色鉛筆で彩色されている。左下は人間発達文化学類教員により4月5日に開催された造形教室の際に作られた鯉のぼりの一番小さいもの。右下(福島大学避難所日誌 http://fukudai311.blog.fc2.com/より)のように避難所の壁を飾っていた。いずれも何のことはない掲示物であるが,何十年か後には,福島大学に避難所があった証として,あるいは当時の避難生活の様子を知る資料として,貴重なものになるかもしれない。
引用文献 1) 鈴木典夫.(2011)福島大学災害避難所の47日間 学生と避難した人々が一緒に調理. 産学官連携ジャーナル2011年7月号. [http://sangakukan.jp/journal/journal_contents/2011/07/articles/1107-02-2/1107-02-2_article.html]
執筆:鈴木典夫・黒沢高秀
出展:
福島大学貴重資料集 第3号